溜飲を下げさせる〈思い知ったか、いい気味だ)の同調という形式のアヘン供給

あなたはなぜ「嫌悪感」をいだくのか

あなたはなぜ「嫌悪感」をいだくのか

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中毒とは、高揚感の後に禁断症状が続き、それを満たせるのが追加のドラッグ、つまりこの場合にはホラー映画しかないということを意味している。この欲求のサイクルは、繰り返すたびに強化されていく。同じ映画を繰り返し見るよりも、新しい刺激を受けるほうが面白い。そのために、「中毒」になった観客が新しいものを求め続ける限り、新しいホラー映画がこれからも際限なくつくられつづけるとみられている。

新政権になったからといって、一部の方が懸念しているように徴兵制はすぐさま施行されることはないと思う。徴兵制の経済的社会的コストはかなり大きい。

また、長いナイフの夜のようなテロやゲシュタポの逮捕の嵐が来るわけでもないだろう。今の日本の左派など、魂の抜けた案山子がひたすらケリを入れられているようなもので、ワイマール期のKPDのような存在、70年代南米の反政府ゲリラのような存在はどこにも見当たらない。

では、アメリカのパーマー追放(ロシア革命後のパーマー米国司法長官が数千人の左翼分子をソビエトロシアに追放)がなされるのか。
それもないだろうと思う。あの当時の支配層の恐怖やアナーキストの爆弾騒動など、今の日本に微塵も起こっていない。


では、何が行われるのか。多分ありえるとすれば、1968年のプラハの春以降の正常化のプロセスのような、従順でない分子が、社会の各層から次第に日の目の当たらぬ場所へ、各個撃破的に追いやられる。これがありそうなシナリオだろうと思う。

しかし、これだけではない。
これだけでは、国民多数派に密やかなる同情を生み出してしまいかねない。

では、何をするか。私は来るべき、保守強硬派の政権は多分自民党公明党の政権であろうが、この1年の維新の会とりわけ橋下氏の支持が関西のみならず全国ではそう落ち込んでいないという点に注目すると思う。もちろん、あらゆる分析や統計が示すとおり、彼らが政策的実績を挙げたわけではまったくない。またこれからの未来の制作分野でも、安全保障や相続制度、最低賃金制度などで、ラッパを吹いているものの、撤回したりとあまり見目よろしくない様をさらけ出している。

このようなドタバタを行えば、急速に支持が終息してもおかしくない。しかし、そうはなっていない。もちろん、保守派の一部は仮装サヨクなるレッテルを貼ることにより維新の会を精力的に批判している(しかし、彼ら保守派の敵概念、内通者概念の膨張転移ぶりは、もはや癌の治療可能なポイントオブノーリターンを超えてしまっているのがひとごとながら心配である)、また、左派・リベラル派は最低賃金制度の廃止や政治活動の禁止、恣意的な処分などに厳しく批判を加えている。

これほど批判を浴びているのなら、もはや支持率が数分の1になってもおかしくない。しかしそうはなっていない。数割は失っているものの、支持率を見る限り、持ちこたえている。

政策のドタバタに日本の有権者が慣用かといえばそうではないだろう。現に未来の党は、結党当初はそれなりのインパクトは与えたものの、党首の線の細さもさることながら、結党後のドタバタで急速に期待感を失速させてしまった。

私は、あれほど批判や行為行動の支離滅裂が批判されながら支持を壊滅的に失わない理由について、この半月、考えていた。

以下はあくまで、私の試論であるが、先行する様ざまな諸賢に既に言い尽くされているようにも思う。


私のみるところ、維新の会及び橋下市長が支持を失わないのは、彼に一度投票もしくは期待した人間に一度ならず溜飲を下げさせるという精神的糧を供給したことにあると思う。

今はせちがらい時代だ。ベースアップはなくなったとはいえ、定期昇給、制度はともかく年10日以上の有給消化、夏至の時期でも、完全に日没するまでサービス残業と無縁に見える安定雇用な公務員、それとは真逆の民間企業での終わりなき苦役日記を継続する人間にとって、公務員や学者といった「自由」を満喫するかに見える人間が、槍玉にあげられ、翻弄され、恥をかかされるという娯楽を投げ与えられ、それに同調していい気味だと思う気持ちは判らないではない。しかも数度にわたりそういったエンターテイメントを手をかえ品をかえ提供してくれるのである。今までの法や行政の慣行からすれば、無理筋きわまりないものを、反対派がこれで奴も終わりと色めき攻撃を受けながらも、依然として不倒のままである。失策をしでかした反対派は彼の前で頭を下げるというような場面までおまけつきだ。

このような「いい気味だ」「ざまあみろ」という情念を満たしてくれ、それをオブラートで包むような統治機構云々の聞こえのいい言葉で覆い隠してくれる。それは一度ならず数度同調した人間は、彼やその会がいかに、支離滅裂な矛盾をきたしたところでついていきますよ。それは当然のことです。

これを、保守強硬派の政治家諸氏が真似をしないはずはないのです。一円もかからずに、このような継続的な支持調達、失策をしでかしたとしても支持を継続できるような精神的依存症に自ら陥ってくれるのですから。

石原都知事は、維新の会の記者会見において、質問する記者に対してクイズ的な細部な項目を逆質問して、優位にたって、「勉強不足」な記者、話にならんという絵図を作っていますが、これはもちろん橋下市長の二番煎じです。

それでは、来るべき安部政権において、保守的施策が何がとられるか。

少しばかり反実仮想してみたい。

私は、眼に見える結果としては、路上看板や、駅公共場所での、仮想敵国、中国韓国の言葉での標記や放送を廃止するという施策が採られるのではないかと思いましたが、いかにも鎖国への退行的だし、経済的に縮減することを厭わない超経済的な空気が覆わないかぎり、まだ最初の一手としてこれはないだろうと思います。

では何か。

これはあくまで仮想なのですが、国旗国歌法施行後、いくつかの草の根保守団体の請願に基づき、ほとんどの議会で国旗が仰々しく掲げられています。また、かつて革新勢力が強かった県を含め、小中高の公立学校での入学卒業の儀式での国旗国家の扱いは、空気と同調に弱いわれわれ日本人らしく、滑稽なまでに仰々しく取り扱われています。自民が野にくだった保守派の団体の集会での国旗の多さ、大きさ、登壇のたびごとの一礼はもはや、逸脱を許さない規範とすらなっています。

中庸な考えなら、そこで充分となるところですが、残念ながら来るべき総選挙で多数を占める政権にそのような中庸思考はあまり期待できません。

公教育に国旗国歌を整備したあとに、そこで終息するわけではないのです。

では、どこか。

私の思うところ、次は、投票所でしょう。小中学校や役場が投票が地方国政のみならず行われていますが、まず入り口に旗ざおの国旗がどんと構える。また投票場内に大きな国旗が壁に掲げられる。国旗に敬意をということで、最初は自発的に保守派団体の提唱や自主的営為として、投票所で国旗に対して一礼するというのが行われ、最終的にご一礼くださいとの張り紙が国旗の脇に張られる。

彼らからすると、表向き「日本国民なら当然のマナーです。日本国民としての公民権を果たすのですから当然、わが国の国旗に敬意を評するべきです」
他方、アジプロ標題の自家中毒に陥った保守派雑誌の表題や、保守系サイトでは、「サヨクへの踏み絵か、ざまあWW」「日本が嫌いでたまらないサヨクは、国旗国歌にじんましんが出る連中だから、投票できないだろう、帰化人も同じ、ニヤリ」などの溜飲を下げるような言葉が乱舞する。

大して金もかからずに、目に付く施策として実行されるのではないですかね。

私としては、同調と伝染を強化する施策に嫌悪感を覚えながらも、「好きにすれば」としか思えない。但し、こういった吹き上がり行動は際限のないところまで暴走しがちで、国旗のみにとどまらず、国歌君が代がエンドレスで投票所内に放送されるかもしれぬ。その場合は、選挙立会人は相当お気の毒だが、傍から見てどんなに滑稽でも、一旦空気が支配し、またそれに異を唱えた場合、血相を変えて食って掛かる人間がどこから現れるか判らない状況においては、大勢はひたすら順応するしかないのである。

これも没落のひとつではあろうが。

参考
名古屋市役所を覆う国旗の群れ
http://dr-stonefly.at.webry.info/200710/article_5.html