ヨーロッパの覇権とユダヤ人

ヨーロッパの覇権とユダヤ
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1)画一的、均質的でないスペインの多文化的な性格がもっとも発達した時期は、およそ西暦1000年から1250年の間である。アルフォンソ6世はユダヤ人に信仰の自由と一定の自治を許したので、多くのユダヤ人が流入して文化の担い手となり、12、13世紀を通じてキリスト教徒に勝るとも劣らず、アラブ・イスラム文化の遺産を脈々として生きる遺産として継承した。


2)こうしてスペインのユダヤ人は、東ヨーロッパのユダヤ人に許されなかった土地所有を許され、農業に従事するユダヤ人さえ出現した。一般に思われているのとは違って、多くのユダヤ人は地方の村落に住み、土地を耕作し、果樹園でブドウやオリーヴを栽培していたのだ。


3)1480年から活動を始めた王立異端審問所の審問官の眼から見れば、これらはカトリック王国スペインから摘出排除すべき教会の敵、異端分子ということになるだろう。しかしながらここには、各宗教が互いに強調しあう差異を差異として受け入れながらも、その差異を差別に転化したり、差別を暴力的に表現したりしなかった人々の英知が息づいている。スペインがこのような多文化的な性格を失わずに近代を迎えていたなら、ヨーロッパの近代はまた別な相貌と特質を持ったと思われるが、歴史はそのように展開しなかった。どのようにしてスペインは多文化的性格を失っていったのだろうか。あらかじめ筆者の見方を記しておけば、それは自然死によって消滅したのではなくて、スペイン王権によって扼殺されたのである


4)このような乱世によくある宣伝合戦で、トラスターマラ派は王室の金庫の鍵を握る財務長官や多くの徴税請負人をユダヤ人で固めたペドロ政治(といっても、これは1240年代のフェルナンド3世時代にまでさかのぼる、カスティリーヤ王国の伝統である)の現実を巧みに利用した。―「残忍王」はおびただしい血を流した汚れた手の持ち主であるばかりか、ユダヤ人を保護・重用し、「キリスト教徒の生き血を吸おうと、てぐすね引いて待っている」ユダヤ人官僚たちの王、すなわち「ユダヤ人の王」でしかない。この「ユダヤ人の王」とユダヤ人側近の手から、祖国カスティーリヤを解放せよ、と。この宣伝の毒は全土にまわって、ユダヤ人への敵意が深く根付いたものと考えられる。


5)このために国王は、愚直で狂信的な一人の聖職者を持て余すことになる。国王陛下は内心ではユダヤ人殺害を歓迎しておられる。ユダヤ人を殺害しても法的、宗教的に罪に問われることはない。心安んじてユダヤ人を根絶せよ―こういう物騒な説教を繰り広げて、セビーリヤ市の民衆を扇動した聖堂助祭長のフェラント・マルティネスである。


6)血のにおいをかいで狂ったかのような暴徒の熱狂は、セビーリヤからトレード〈6月18日)、バレンシア(7月9日)、バルセローナ(8月2日か5日)へと伝染してアラゴン・カスティーリヤ全土をなめ尽くし、村人から都市住民、托鉢修道士、地元有力者までのキリスト教徒たちは、ユダヤ人を「死か洗礼か」という絶体絶命の窮地に追い込んだ。


7)まずコンベルソ(新キリスト教徒)に対するキリスト教徒の態度に的を絞ってみる。15世紀前半までは、キリスト教社会はコンベルソを旧キリスト教徒と同等の者として受け入れていたが、コンベルソたちの教会、宮廷、官界、経済界への進出が顕著になる15世紀後半を迎えると、これを歓迎しないキリスト教徒が出てくる。新キリスト教徒が上級聖職や市の役職などについて、旧キリスト教徒を管轄するような立場になると、不満がくすぶり社会的緊張が高まって、暴動が発生したり、政情不安を招いたりする。あるいは、「リンピエンサ・デ・サングレ(=純血)」と呼ばれたような差別を公然化しようとする動きが出てくる。非の打ち所のないキリスト教徒であろうとも、新キリスト教徒が公職につくことを禁止したトレード市の法令が制定されたのは、1449年である。