精神論はなぜ重宝されるか

虚構戦記 研究読本

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第二の「現実無視の精神論」についても現在では良く知られているが、「精神力さえあればなんでもできる」という考えは古来より存在しており、実際に幕末の日本でも「夷狄(西洋諸国)に対し大和魂で立ち向かう」考えがあった。

戦後でも共産圏諸国で「革命精神を持って、生産計画を遂行せよ」などといったスローガンで国民を焚きつけ、同様に失敗した事実がある。それどころか今日の日本はもちろん、古今東西を問わず程度の差こそあれ、どこででも見られるものである(少年向けの漫画では「常識」に属するものだろう。

それではなぜ「現実無視の精神論」に傾く人間が後を絶たないのか。一言で言えばこの論理はそれを主張する側の人間(間違っても実行する側の人間ではない)にとって極めて「楽だから」である。

つまり「精神力」というものは物事を成し遂げるに当たって必要不可欠であることを誰も否定できず、なおかつ目に見えるものでもなければ、数字にして測定し他人に対し即座に表せるものでもない。

そのように実体として表現することができないものに、無限の価値があると想定すれば、どんな不可能事でも具体的な提案を示すことなく、可能だと言い張ることが簡単にできるだろう。

くわえて自分の意見に反対する人間を非難するに当たっても「反対するのは精神力が不足しているからだ」「皆が意志を固めて一丸となっているのに、そんな事を言うとやる気が削がれる」などと非難すれば、日本軍や旧共産圏諸国でもそうだったように、合理性や客観的状況を仔細に検討することなく退けることができる。

しかも、それで実際に事が失敗したとしても「失敗したのは実行したものの精神力が足りなかったからであって、確固たる信念さえあれば必ず実現できた」と言い張れば、言い出した人間の責任が不問にされ、実行した人間に全責任を押し付けることができるという、極めて都合の良いものなのである。

だが組織であれ個人であれ、いったんこの楽で無責任な論理を受け入れてしまうと、後は盲目的に現実から一直線に外れた過激な方向へと進んでいき、現実論を唱える人物を排撃するようになってしまうのは、多くの国家や団体において、これまでの長い歴史の中で幾度も繰り返されてきた過ちなのだ。

また、そのような人物・組織は事態が自分たちの思うとおりに進まなければ(当然ではあるが、普通は物事が特定の勢力の思い通りに進むはずがない)、実際の問題点を直視することなく「精神力が不足しているからに違いない」とますます依怙地に精神論に傾き、現実から乖離していく悪循環に捕らわれてしまう。

そして意見の異なる人間をことさらに敵視し、排除することによって組織の「純度」をさらに高めようとするものである。
そうなれば大半の人間は、冷静に事態を検討した上で反対・慎重論を主張しようとしても、非難の的にされることを恐れて思っていることを口にできず、結局は全員が(本心がどうあれ)過激な精神論を声高に唱えるか、大声で強硬論を唱える人間が主導権を持つこととなっていく。

同時に実情を冷静に分析しそれに対処するよりも、相手を過小評価し根拠の薄弱な弱点だけを頼りとし、脅威に対する正しい認識を敢えて拒否した上での希望的観測に終始するような事態となる。すなわち「こうなるだろう」ではなく、「こうなって欲しい」願望をそのまま確固たる現実と考えるようになってしまうのだ。

 これは言うなれば著名なアンデルセン童話「裸の王様」に出てくる「馬鹿には見えない服」を着た状態になってしまうということである。つまり「精神力に無限の力がある」ことは精神論者にとって「馬鹿には見えない服」であり、その前提を疑い客観的な議論をする、つまり、「『馬鹿には見えない服』が本当に存在するのかどうか疑問を持つ」ことは、彼らから見るとそのまま「馬鹿である証明」になるのである。

 それに疑問を持つ人間は「服の見えない馬鹿」なのだから、意見の中身がどうだろうと、まともに反論する必要など最初からないわけで、ただ相手が「馬鹿」であることだけを声高に避難すれば済む。

 だが実際には「馬鹿には見えない服」など存在しない以上、現実との間にギャップが生じることは避けられず、それを直視すれば「裸の王様」になってしまう。そしてそれを他人、そして何より自分自身に対しごまかすため、ますます虚構の世界にはまり込んでしまうのだ。