6月16日 明日日曜に関して 2

2⇒平成26年度入試のための第33回 中・高入試 受験なんでも相談会

 主催 紀伊国屋書店新宿本店 声の教育者
 ■会期 6月16日(日曜日) 10時半〜16時半 
 ■会場 新宿NSビル地下1階 (新宿駅南口、西口より徒歩10分)
 

 (参加校)
東京 
青山学院高等部中等部、麻布中学校、足立学園中学高等学校、跡見学園中学校、郁文館学園中学高校グローバル高校、上野学園中学高校、頴明鑑中学校、江戸川女子中学高校、桜美林中学高校、鴎友館学園女子中学校、大妻中学校、大妻多摩中学校、大妻中野中学校、小野学園女子中学高校、海城中学校、かえつ有明中学高校、学習院中学高校、川村中学高校、北豊島中学高校、吉祥女子中学校共栄学園中学高校、暁星中学校、共立女子中学校、共立女子第二中学高校、錦城高校、錦城学園高校、慶應義塾中等部、京華中学高校、京華女子中学高校、京華商業高校、恵泉女中学校、京北中学高校、工学院大学附属中学高校、攻玉社中学校、麹町学園女子中学校、佼正学園中学高校、佼正学園女子中学高校、香蘭女学校中等科、國學院高校国学院大学久我山中学高校、国際基督教大学高校、、国士舘中学高校、駒込中学高校、駒澤大学高校駒場学園高校、駒場東邦中学校、桜ヶ丘中学高校、実践学園中学高校、実践女子学園中学校、品川女子学院中等部、芝中学校、芝浦工業大学中学高校、渋谷教育学園中学校、十文字中学高校、淑徳巣鴨中学高校、順天中学高校、頌栄女子学院中学校城西大学附属城西中学高校、聖徳学園中学高校、城北中学高校、昭和女子大学附属昭和中学校、女子聖学院中学校、女子美術大学付属中学高校、白梅学園高校清城中学校、白百合学園中学校、巣鴨中学高校、杉並学院中学高校、駿台学園中学高校、聖学院中学校、成蹊中学高等学校、成城中学高校、成城学園中学高校、正則高校、成立学園中学高校、青陵中学高校、世田谷学園中学校、専修大学附属高校、大成高校、大東文化大学第一高校、高輪中学校、拓殖大学第一高校、玉川学園(中高)、玉川聖学院中等部高等部、多摩大学附属聖ヶ丘中学高校、多摩大学目黒中学高校、中央大学高校、中央大学杉並高校中央大学附属中学高校、千代田女学園中学高校、帝京中学高校、貞静学園中学高校、田園調布学園中等部、戸坂中学戸坂女子高校、東海大学付属高輪台高校中等部、東京高等学校東京家政学院中学高校、東京家政大学付属女子中学高校、東京工業大学附属科学技術高校、東京純心女子中学高校、東京女学館中学校、東京女子学院中学高校、東京女子学園中学高校、東京成徳大学中学高校、東京電機大学中学高校、東京都市大学付属中学校、東京農大第一高校中等部、東京立正中学高校、桐朋中学高校、桐朋女子中学高校、東洋高等学校東洋英和女学院中等部、トキワ松学園中学高校、豊島岡女子学園中学高校、豊島学院高等学校、獨協中学校、中村中学校、二松學舎大学附属高校、日本工業大学駒場中学高校、新渡戸文化中学高校、日本学園中学高校、日本大学櫻丘高校、日本大学第一中学高校、日本大学第二中学高校、日本大学第三中学高校、日本大学鶴ケ丘高校、日本大学豊山中学高校、日本大学豊山女子中学高校、八王子学園八王子中学高校、広尾学園中学高校、富士見中学校、富士見ヶ丘中学高校、藤村女子中学高校、文化学園大学杉並中学高校、法政大学中学高校、宝仙学園中学高等学校理数インター、豊南高校、保善高校堀越高校、本郷中学高校、明星学園中学高校、三輪田学園中学校、武蔵野女子学院中学高校、村田女子中学高校、明治学院高校、明治学院中学東村山高校、明治大学付属中野中学高校、明治大学付属中野八王子中学高校、明治大学付属明治中学高校、明星中学高校、明法中学高校、目黒学院中学高校、目黒星美学園中学校、目白研心中学高校、八雲学園中学高校、安田学園中学高校、山脇学園中学校、立教池袋中学高校、立教女学院中学校、立正大学付属立正中学高校、早稲田中学校早稲田実業学校中等部高等部、早稲田大学高等学院中学部、和洋九段女子中学校

埼玉
浦和明の星女子中学校、浦和実業学園中学高校、大妻嵐山中学高校、大宮開星中学高校、開智中学高校、開智未来中学高校、春日部共栄中学高校、埼玉栄中学高校、栄東中学高校、秀明中学高校、淑徳与野中学高校、城西川越中学、城西大学付属川越高校、昌平中学高校、城北埼玉中学高校、西武学園文理中学高校、西武台新座中学西武台高校、聖望学園中学高校、東京農業大学第三高校附属中学校、獨協埼玉中学高校、武南中学高校、星野学園中学星野高校、立教新座中学高校、早稲田大学本庄高等学院

神奈川
浅野中学校神奈川大学附属中学校、カリタス女子中学校、サレジオ学院中学校洗足学園中学校、中央大学附属横浜中学高校、桐蔭学園中学高校中等教育部、東海大学附属相模高校中等部、桐光学園中学高校、日本女子大学附属中学高校、法政大学第二中学高校、森村学園中等部、山手学院中学高校、横浜富士見丘学園中等教育学校横浜雙葉中学校

千葉
市川中学高校、国府台女子学院中等部高等部、芝浦工業大学柏中学高校、渋谷教育学園幕張中学高校、昭和学院秀英中学高校、聖徳大学附属女子中学高校、専修大学松戸中学高校、千葉日大第一中学高校、東海大学付属浦安高校中央部、東邦大学附則東邦中学高等学校、二松學舎大学附属柏中学高校、麗澤中学高校、和洋国府台女子中学高校

こういった場は、「よりどりみどり」的全能感と、集団での高揚感で、早まった思い込みをしがちであるという事は認識したうえで参加されるなら情報入手に有益ではあると思う。学校観察というより、他の参加者を観察するほうが、より冷徹になれるとは思います。

6月16日 明日日曜に関して

⇒音楽創造の楽しみ(新聞切り抜きから)
 朝日「音楽大学音楽学部 体験フェア」
 音大進学を考える300名様を無料ご招待
 
 上野学園大学国立音楽大学尚美学園大学昭和音楽大学洗足学園音楽大学東邦音楽大学桐朋学園大学フェリス女学院大学武蔵野音楽大学

 ◎日時 6月16日
 ◎会場 ヤマハ銀座ビル 東京都中央区銀座7−9−14

 ■イベントの内容 大学プレゼンテーション(大学の特色と演奏) 進学相談会 特別講演 「音楽大学で何を学ぶのか」吉田純子朝日新聞記者)
 ■主催 朝日新聞社広告局

埼玉県越谷市 調査完了

埼玉県越谷市の0歳から17歳までの人口推移表(17歳を100として)を作り上げた。越谷市少子化推移は2歳までは全国平均より緩やかだったが、直近2年の0歳、1歳で急進展しているのが目に突く。比較対象としての東京(三多摩含む)、日本全国との比較表付。

更に、せんげん台、大袋、北越谷、越谷、新越谷(南越谷)、越谷レイクタウン、蒲生の市内7駅の駅乗降人員数のこの10年での変化と大手塾の進出状況、地場塾の状況などを調査、一覧図表化および各駅ごとの地図にアップした。

大手塾進出状況
栄光3、SAPIX1、東進3、日能研2、早稲アカ3、東京個別2、明光義塾5、スクールIE 3、スクール21 3、河合塾1、代ゼミ1、トライ2、TOE1、森塾2、花まる2

その他駅近辺での、教育に関係する施設、人の出入りの多い施設、経験豊富な地場塾と思しきものなども、上記一覧図表に盛り込んだ。

ノルウェー伝説のひとつ

ミリタリズムの歴史―文民と軍人

ミリタリズムの歴史―文民と軍人


525頁

実際、戦争を終結させることは困難な問題であり、職業軍人には手に負えるものではない。ノルウェー伝説の一つのなかで、民間伝承の語り手が次のように述べている。

 「 この王は自分に忠告するものは誰であれ容赦せず、自分を喜ばすこと以外に耳にするのを好まない。……しかし、われわれ農民は、汝、オーラフ王が平和をもたらすことをのぞむ。もし汝がわれわれの願いをかなえようとしないならば、われわれは汝を殺害し、平安なき不法なる状態をもはや黙視しないであろう。これはわが父祖たちが行ってきたことである。わが父祖たちは、近くにある井戸のなかに五人の王を投げ入れた。これらの王たちが慢心し、法に背反する行為を犯したからであった。」


 国際情勢や安全保障において、抑止概念を最上位概念に考えるリアリストは、国内権力関係においての、このような抑止についてはほとんど無頓着である。無論、このような転覆や反逆の可能性を秘めた「抑止」はアナーキーや下克上への転落要素を秘めているとはいえる。しかし、それをいうのなら、形式的でない実質的戦力を追求する軍事力も無辜の民の殺害や不要な戦争喚起、独裁の招来の転落要素を秘めるので同じことである。

 私は、権力内部関係(組織それは公的、民営を問わないし、運動団体のような指揮命令系統にあるすべてのものを含む)にこのような緊張関係が孕ます伝統をわが国が有していないがゆえに、昨今にみられるような、不祥事における姑息な言い逃れやブラック企業の際限なき酷薄さの亢進などが見られる。そのように思えてならない。

精神論はなぜ重宝されるか

虚構戦記 研究読本

虚構戦記 研究読本

第二の「現実無視の精神論」についても現在では良く知られているが、「精神力さえあればなんでもできる」という考えは古来より存在しており、実際に幕末の日本でも「夷狄(西洋諸国)に対し大和魂で立ち向かう」考えがあった。

戦後でも共産圏諸国で「革命精神を持って、生産計画を遂行せよ」などといったスローガンで国民を焚きつけ、同様に失敗した事実がある。それどころか今日の日本はもちろん、古今東西を問わず程度の差こそあれ、どこででも見られるものである(少年向けの漫画では「常識」に属するものだろう。

それではなぜ「現実無視の精神論」に傾く人間が後を絶たないのか。一言で言えばこの論理はそれを主張する側の人間(間違っても実行する側の人間ではない)にとって極めて「楽だから」である。

つまり「精神力」というものは物事を成し遂げるに当たって必要不可欠であることを誰も否定できず、なおかつ目に見えるものでもなければ、数字にして測定し他人に対し即座に表せるものでもない。

そのように実体として表現することができないものに、無限の価値があると想定すれば、どんな不可能事でも具体的な提案を示すことなく、可能だと言い張ることが簡単にできるだろう。

くわえて自分の意見に反対する人間を非難するに当たっても「反対するのは精神力が不足しているからだ」「皆が意志を固めて一丸となっているのに、そんな事を言うとやる気が削がれる」などと非難すれば、日本軍や旧共産圏諸国でもそうだったように、合理性や客観的状況を仔細に検討することなく退けることができる。

しかも、それで実際に事が失敗したとしても「失敗したのは実行したものの精神力が足りなかったからであって、確固たる信念さえあれば必ず実現できた」と言い張れば、言い出した人間の責任が不問にされ、実行した人間に全責任を押し付けることができるという、極めて都合の良いものなのである。

だが組織であれ個人であれ、いったんこの楽で無責任な論理を受け入れてしまうと、後は盲目的に現実から一直線に外れた過激な方向へと進んでいき、現実論を唱える人物を排撃するようになってしまうのは、多くの国家や団体において、これまでの長い歴史の中で幾度も繰り返されてきた過ちなのだ。

また、そのような人物・組織は事態が自分たちの思うとおりに進まなければ(当然ではあるが、普通は物事が特定の勢力の思い通りに進むはずがない)、実際の問題点を直視することなく「精神力が不足しているからに違いない」とますます依怙地に精神論に傾き、現実から乖離していく悪循環に捕らわれてしまう。

そして意見の異なる人間をことさらに敵視し、排除することによって組織の「純度」をさらに高めようとするものである。
そうなれば大半の人間は、冷静に事態を検討した上で反対・慎重論を主張しようとしても、非難の的にされることを恐れて思っていることを口にできず、結局は全員が(本心がどうあれ)過激な精神論を声高に唱えるか、大声で強硬論を唱える人間が主導権を持つこととなっていく。

同時に実情を冷静に分析しそれに対処するよりも、相手を過小評価し根拠の薄弱な弱点だけを頼りとし、脅威に対する正しい認識を敢えて拒否した上での希望的観測に終始するような事態となる。すなわち「こうなるだろう」ではなく、「こうなって欲しい」願望をそのまま確固たる現実と考えるようになってしまうのだ。

 これは言うなれば著名なアンデルセン童話「裸の王様」に出てくる「馬鹿には見えない服」を着た状態になってしまうということである。つまり「精神力に無限の力がある」ことは精神論者にとって「馬鹿には見えない服」であり、その前提を疑い客観的な議論をする、つまり、「『馬鹿には見えない服』が本当に存在するのかどうか疑問を持つ」ことは、彼らから見るとそのまま「馬鹿である証明」になるのである。

 それに疑問を持つ人間は「服の見えない馬鹿」なのだから、意見の中身がどうだろうと、まともに反論する必要など最初からないわけで、ただ相手が「馬鹿」であることだけを声高に避難すれば済む。

 だが実際には「馬鹿には見えない服」など存在しない以上、現実との間にギャップが生じることは避けられず、それを直視すれば「裸の王様」になってしまう。そしてそれを他人、そして何より自分自身に対しごまかすため、ますます虚構の世界にはまり込んでしまうのだ。

溜飲を下げさせる〈思い知ったか、いい気味だ)の同調という形式のアヘン供給

あなたはなぜ「嫌悪感」をいだくのか

あなたはなぜ「嫌悪感」をいだくのか

191頁
中毒とは、高揚感の後に禁断症状が続き、それを満たせるのが追加のドラッグ、つまりこの場合にはホラー映画しかないということを意味している。この欲求のサイクルは、繰り返すたびに強化されていく。同じ映画を繰り返し見るよりも、新しい刺激を受けるほうが面白い。そのために、「中毒」になった観客が新しいものを求め続ける限り、新しいホラー映画がこれからも際限なくつくられつづけるとみられている。

新政権になったからといって、一部の方が懸念しているように徴兵制はすぐさま施行されることはないと思う。徴兵制の経済的社会的コストはかなり大きい。

また、長いナイフの夜のようなテロやゲシュタポの逮捕の嵐が来るわけでもないだろう。今の日本の左派など、魂の抜けた案山子がひたすらケリを入れられているようなもので、ワイマール期のKPDのような存在、70年代南米の反政府ゲリラのような存在はどこにも見当たらない。

では、アメリカのパーマー追放(ロシア革命後のパーマー米国司法長官が数千人の左翼分子をソビエトロシアに追放)がなされるのか。
それもないだろうと思う。あの当時の支配層の恐怖やアナーキストの爆弾騒動など、今の日本に微塵も起こっていない。


では、何が行われるのか。多分ありえるとすれば、1968年のプラハの春以降の正常化のプロセスのような、従順でない分子が、社会の各層から次第に日の目の当たらぬ場所へ、各個撃破的に追いやられる。これがありそうなシナリオだろうと思う。

しかし、これだけではない。
これだけでは、国民多数派に密やかなる同情を生み出してしまいかねない。

では、何をするか。私は来るべき、保守強硬派の政権は多分自民党公明党の政権であろうが、この1年の維新の会とりわけ橋下氏の支持が関西のみならず全国ではそう落ち込んでいないという点に注目すると思う。もちろん、あらゆる分析や統計が示すとおり、彼らが政策的実績を挙げたわけではまったくない。またこれからの未来の制作分野でも、安全保障や相続制度、最低賃金制度などで、ラッパを吹いているものの、撤回したりとあまり見目よろしくない様をさらけ出している。

このようなドタバタを行えば、急速に支持が終息してもおかしくない。しかし、そうはなっていない。もちろん、保守派の一部は仮装サヨクなるレッテルを貼ることにより維新の会を精力的に批判している(しかし、彼ら保守派の敵概念、内通者概念の膨張転移ぶりは、もはや癌の治療可能なポイントオブノーリターンを超えてしまっているのがひとごとながら心配である)、また、左派・リベラル派は最低賃金制度の廃止や政治活動の禁止、恣意的な処分などに厳しく批判を加えている。

これほど批判を浴びているのなら、もはや支持率が数分の1になってもおかしくない。しかしそうはなっていない。数割は失っているものの、支持率を見る限り、持ちこたえている。

政策のドタバタに日本の有権者が慣用かといえばそうではないだろう。現に未来の党は、結党当初はそれなりのインパクトは与えたものの、党首の線の細さもさることながら、結党後のドタバタで急速に期待感を失速させてしまった。

私は、あれほど批判や行為行動の支離滅裂が批判されながら支持を壊滅的に失わない理由について、この半月、考えていた。

以下はあくまで、私の試論であるが、先行する様ざまな諸賢に既に言い尽くされているようにも思う。


私のみるところ、維新の会及び橋下市長が支持を失わないのは、彼に一度投票もしくは期待した人間に一度ならず溜飲を下げさせるという精神的糧を供給したことにあると思う。

今はせちがらい時代だ。ベースアップはなくなったとはいえ、定期昇給、制度はともかく年10日以上の有給消化、夏至の時期でも、完全に日没するまでサービス残業と無縁に見える安定雇用な公務員、それとは真逆の民間企業での終わりなき苦役日記を継続する人間にとって、公務員や学者といった「自由」を満喫するかに見える人間が、槍玉にあげられ、翻弄され、恥をかかされるという娯楽を投げ与えられ、それに同調していい気味だと思う気持ちは判らないではない。しかも数度にわたりそういったエンターテイメントを手をかえ品をかえ提供してくれるのである。今までの法や行政の慣行からすれば、無理筋きわまりないものを、反対派がこれで奴も終わりと色めき攻撃を受けながらも、依然として不倒のままである。失策をしでかした反対派は彼の前で頭を下げるというような場面までおまけつきだ。

このような「いい気味だ」「ざまあみろ」という情念を満たしてくれ、それをオブラートで包むような統治機構云々の聞こえのいい言葉で覆い隠してくれる。それは一度ならず数度同調した人間は、彼やその会がいかに、支離滅裂な矛盾をきたしたところでついていきますよ。それは当然のことです。

これを、保守強硬派の政治家諸氏が真似をしないはずはないのです。一円もかからずに、このような継続的な支持調達、失策をしでかしたとしても支持を継続できるような精神的依存症に自ら陥ってくれるのですから。

石原都知事は、維新の会の記者会見において、質問する記者に対してクイズ的な細部な項目を逆質問して、優位にたって、「勉強不足」な記者、話にならんという絵図を作っていますが、これはもちろん橋下市長の二番煎じです。

それでは、来るべき安部政権において、保守的施策が何がとられるか。

少しばかり反実仮想してみたい。

私は、眼に見える結果としては、路上看板や、駅公共場所での、仮想敵国、中国韓国の言葉での標記や放送を廃止するという施策が採られるのではないかと思いましたが、いかにも鎖国への退行的だし、経済的に縮減することを厭わない超経済的な空気が覆わないかぎり、まだ最初の一手としてこれはないだろうと思います。

では何か。

これはあくまで仮想なのですが、国旗国歌法施行後、いくつかの草の根保守団体の請願に基づき、ほとんどの議会で国旗が仰々しく掲げられています。また、かつて革新勢力が強かった県を含め、小中高の公立学校での入学卒業の儀式での国旗国家の扱いは、空気と同調に弱いわれわれ日本人らしく、滑稽なまでに仰々しく取り扱われています。自民が野にくだった保守派の団体の集会での国旗の多さ、大きさ、登壇のたびごとの一礼はもはや、逸脱を許さない規範とすらなっています。

中庸な考えなら、そこで充分となるところですが、残念ながら来るべき総選挙で多数を占める政権にそのような中庸思考はあまり期待できません。

公教育に国旗国歌を整備したあとに、そこで終息するわけではないのです。

では、どこか。

私の思うところ、次は、投票所でしょう。小中学校や役場が投票が地方国政のみならず行われていますが、まず入り口に旗ざおの国旗がどんと構える。また投票場内に大きな国旗が壁に掲げられる。国旗に敬意をということで、最初は自発的に保守派団体の提唱や自主的営為として、投票所で国旗に対して一礼するというのが行われ、最終的にご一礼くださいとの張り紙が国旗の脇に張られる。

彼らからすると、表向き「日本国民なら当然のマナーです。日本国民としての公民権を果たすのですから当然、わが国の国旗に敬意を評するべきです」
他方、アジプロ標題の自家中毒に陥った保守派雑誌の表題や、保守系サイトでは、「サヨクへの踏み絵か、ざまあWW」「日本が嫌いでたまらないサヨクは、国旗国歌にじんましんが出る連中だから、投票できないだろう、帰化人も同じ、ニヤリ」などの溜飲を下げるような言葉が乱舞する。

大して金もかからずに、目に付く施策として実行されるのではないですかね。

私としては、同調と伝染を強化する施策に嫌悪感を覚えながらも、「好きにすれば」としか思えない。但し、こういった吹き上がり行動は際限のないところまで暴走しがちで、国旗のみにとどまらず、国歌君が代がエンドレスで投票所内に放送されるかもしれぬ。その場合は、選挙立会人は相当お気の毒だが、傍から見てどんなに滑稽でも、一旦空気が支配し、またそれに異を唱えた場合、血相を変えて食って掛かる人間がどこから現れるか判らない状況においては、大勢はひたすら順応するしかないのである。

これも没落のひとつではあろうが。

参考
名古屋市役所を覆う国旗の群れ
http://dr-stonefly.at.webry.info/200710/article_5.html

ヨーロッパの覇権とユダヤ人

ヨーロッパの覇権とユダヤ
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1)画一的、均質的でないスペインの多文化的な性格がもっとも発達した時期は、およそ西暦1000年から1250年の間である。アルフォンソ6世はユダヤ人に信仰の自由と一定の自治を許したので、多くのユダヤ人が流入して文化の担い手となり、12、13世紀を通じてキリスト教徒に勝るとも劣らず、アラブ・イスラム文化の遺産を脈々として生きる遺産として継承した。


2)こうしてスペインのユダヤ人は、東ヨーロッパのユダヤ人に許されなかった土地所有を許され、農業に従事するユダヤ人さえ出現した。一般に思われているのとは違って、多くのユダヤ人は地方の村落に住み、土地を耕作し、果樹園でブドウやオリーヴを栽培していたのだ。


3)1480年から活動を始めた王立異端審問所の審問官の眼から見れば、これらはカトリック王国スペインから摘出排除すべき教会の敵、異端分子ということになるだろう。しかしながらここには、各宗教が互いに強調しあう差異を差異として受け入れながらも、その差異を差別に転化したり、差別を暴力的に表現したりしなかった人々の英知が息づいている。スペインがこのような多文化的な性格を失わずに近代を迎えていたなら、ヨーロッパの近代はまた別な相貌と特質を持ったと思われるが、歴史はそのように展開しなかった。どのようにしてスペインは多文化的性格を失っていったのだろうか。あらかじめ筆者の見方を記しておけば、それは自然死によって消滅したのではなくて、スペイン王権によって扼殺されたのである


4)このような乱世によくある宣伝合戦で、トラスターマラ派は王室の金庫の鍵を握る財務長官や多くの徴税請負人をユダヤ人で固めたペドロ政治(といっても、これは1240年代のフェルナンド3世時代にまでさかのぼる、カスティリーヤ王国の伝統である)の現実を巧みに利用した。―「残忍王」はおびただしい血を流した汚れた手の持ち主であるばかりか、ユダヤ人を保護・重用し、「キリスト教徒の生き血を吸おうと、てぐすね引いて待っている」ユダヤ人官僚たちの王、すなわち「ユダヤ人の王」でしかない。この「ユダヤ人の王」とユダヤ人側近の手から、祖国カスティーリヤを解放せよ、と。この宣伝の毒は全土にまわって、ユダヤ人への敵意が深く根付いたものと考えられる。


5)このために国王は、愚直で狂信的な一人の聖職者を持て余すことになる。国王陛下は内心ではユダヤ人殺害を歓迎しておられる。ユダヤ人を殺害しても法的、宗教的に罪に問われることはない。心安んじてユダヤ人を根絶せよ―こういう物騒な説教を繰り広げて、セビーリヤ市の民衆を扇動した聖堂助祭長のフェラント・マルティネスである。


6)血のにおいをかいで狂ったかのような暴徒の熱狂は、セビーリヤからトレード〈6月18日)、バレンシア(7月9日)、バルセローナ(8月2日か5日)へと伝染してアラゴン・カスティーリヤ全土をなめ尽くし、村人から都市住民、托鉢修道士、地元有力者までのキリスト教徒たちは、ユダヤ人を「死か洗礼か」という絶体絶命の窮地に追い込んだ。


7)まずコンベルソ(新キリスト教徒)に対するキリスト教徒の態度に的を絞ってみる。15世紀前半までは、キリスト教社会はコンベルソを旧キリスト教徒と同等の者として受け入れていたが、コンベルソたちの教会、宮廷、官界、経済界への進出が顕著になる15世紀後半を迎えると、これを歓迎しないキリスト教徒が出てくる。新キリスト教徒が上級聖職や市の役職などについて、旧キリスト教徒を管轄するような立場になると、不満がくすぶり社会的緊張が高まって、暴動が発生したり、政情不安を招いたりする。あるいは、「リンピエンサ・デ・サングレ(=純血)」と呼ばれたような差別を公然化しようとする動きが出てくる。非の打ち所のないキリスト教徒であろうとも、新キリスト教徒が公職につくことを禁止したトレード市の法令が制定されたのは、1449年である。